宣伝会議賞の哲学

宣伝会議賞を通して、コピーライティングのあるべき姿を考えていきます。

The Birth of WORDirect

突然ですが、ADreamあらため・・・・・、

 

WORDirectです。

 

「アド夢見ました」と言い続けても、
どうやら何ももらえそうにない私は、
公募賞への参加には区切りをつけて、
別の形でことばの力を活かせるような、
新たな方向に進んでみることにします。

 

ことばの力で人を動かすということは、
なにも広告に限ったことじゃないわけで、
むしろ、本当は広告の方がほんの一部。

まずは、「人を動かす」ことの中でも、
自分を一番の「ターゲット」にしたい
私ってこれまで、自分の人生への不満を、
宣伝会議賞で埋め合わせようとしてたかも。
身近な人との良き関係性を築くことを含めて、
他の誰か以前に、まずは自分を幸せにすること
そのために、ことばを活用・開発していきたい。
アウトプットだけではなく、思考過程においても。

とはいえ、社会の中で生きていくからには、
ことばを発信していくことも考えてみたい。
まあ、ブログやSNSをやったとしても、
世の中に広く伝わる可能性は限定的かな。
でも、ノーチャンスではないはずでしょ。
いわゆる「バズる」とは無縁だとしても、
志でつながる静かな連帯を創造できたら。

 

具体的な活動は、何も決まっていません。
ただ、タグラインだけは決まっています。

 

「ありたい」へ歩むことば。

 

これが、私の今後の人生のタグライン
約2年半前には出来ていたんですけどね。
なんと、ロゴまで作ってしまいました。

 

f:id:ADream:20190428105008j:plain

 

えっ、どうやって作ったかって?
イラストなんとかじゃないですよ。
だって、絵の人じゃないんだもん。
もちろん、フォトなんとかでもない
だって、写真の人でもないんだし。

いや、試用版をダウンロードしたのに、
使い方が分からず使えなかったとか、
決して、そういう理由ではありません。
こんなもの、使う必要ないでしょ!

 

読者:あの、それなら、「こんなもの」ではなく、
   「あんなもの」になるはずでは・・・?
 W:・・・そのせっかくの批判精神は、ぜひ、
   宣伝会議賞に活かしてください・・・。

 

Wordです。WORDirectですから・・・。

 

人生って、ひとつの事業だと思います。
ビジネスかどうかはあまり関係なくて、
広義の意味での「エンタープライズ
その中に、「公」も「私」も含まれる。
そして、両者とも、「ことば」で動く
その可能性には、無限の開発の余地あり

 

・・・・・

 

この記事をもって、本ブログの更新は終了。

 

ことばの可能性を探るそれぞれの道の先で、
あなたの道と私の道が、もし、出会ったら、
その時は、ゆっくりと語り合いましょう。

 

では、いつか、どこかで、また。

The End of ADream

今回は、このブログの更新を終えるにあたり、
宣伝会議賞への挑戦と、このブログのことを、
簡単ではありますが、総括しておきます。

 

宣伝会議賞に参加することになったきっかけは、
本職の技術文書の翻訳の仕事が減っていた頃に、
何か新しいことを始めようと思ったことでした。

とはいえ、未経験のことを始めるのが苦手な私は、
結局のところ、ことば関係しかできそうになく、
しかも、文学的なものが書けるとはとても思えず、
最後に消去法的に残ったのが宣伝会議賞でした。

が、初参加の第52回の締切までの約2週間で、
中毒状態と言えるほど、はまってしまいました。

なぜあれほどはまってしまったのか考えてみると、
仕事のストレスからの逃避だったのだと思います。

 

翻訳の仕事って、原稿の文章が整理されていないと、
考えれば考えるほどストレスがたまることもあって。
よりよい翻訳をしようと思っていくら考えても、
翻訳では解決できない問題に気付いたりとか。
それでも、何らかの訳文を納品せざるをえない。

生活のためとはいえ、原稿に縛られ納品義務を負い、
自分自身でも納得していない文章を生産する
そういう形でことばを使うことが不本意でした。

フリーランスになる前も含めて数えてみると、
この仕事を始めてからもう20年近くになり、
そんな不満との付き合い方も覚えたつもりが、
ルサンチマン(?)が蓄積していたのでしょう。

 

宣伝会議賞は、そんな私を解放してくれました

自分の意志で参加し、自分の考える力が試され、
当初の想像よりも論理的な思考力も活かせる。

そうして宣伝会議賞に熱中して取り組むうちに、
翻訳の仕事が理不尽なものに思えてきました
なんだか、宗教に目覚めた人みたいですが・・・。

 

が、審査のあり方は私が望むものからは程遠かった
詳しくは、課題分析等を読んでもらいたいのですが、
とにかく、プロのコピーライターやその志望者が、
ここまで考えていないとは思いもよりませんでした

しかも、私はことばの開発の場だと捉えていたけれど、
実際には、出題企業ではなく主催社と応募者と審査員の、
生産の論理に支配されているとしか思えない節もあり。

皮肉なことに、理不尽から逃避したはずの私は、
似た様相の別の理不尽に出会ってしまったのです。

 

そして今、宣伝会議賞とお別れするわけですが、
それでも、得たものも確かにあるのが救いです

まず、自分にも創造的な力があるという発見。
それは、自分が特別だということではなく、
そういう力は誰にでもあるのだと思います。

そして何より、じっくり考えることの楽しさ
初参加の頃に湧いてきたあのエネルギーは、
久々に生きる喜びを感じさせてくれました

 

それから、ブログのことも少し振り返ると・・・。

「チャレンジブログ」落選を機に以前のブログを始め、
さらに自分の色を積極的に出していこうということで、
第55回の応募期間終了後にこのブログを始めました。
それは、私の中では大成功だったと思っています。

ブログに書く過程で思考が深化したり整理されたり
そういうことは、数えきれないほどありました。
また、現ブログを始めてからは、より明確に、
自分が目指す方向性を出すことができました。

このブログのタイトル、宣伝会議賞の哲学』は、
同時に、このブログのタグラインでもありました
少なくとも、私自身にとっては機能しました。
もう一度あの時に戻ってブログをやり直すとしても、
タイトルは、やはり『宣伝会議賞の哲学』しかない。

 

ブログ開始当初に、こんな記事を書いています。

宣伝会議賞の哲学』とは
http://philosophies-of-ska.hatenablog.jp/entry/2017/11/06/180000

この姿勢は、貫くことができたと自負しています。
ただ、「宣哲徒」の仲間を作れなかったことが残念
もし、宣伝会議賞が今後も長く続くのであれば、
いつか将来、新たな「宣哲徒」が生まれますように

 

最後に、読んでくれたひとりひとりに、心から感謝
現在の宣伝会議賞の本流からは外れたブログですし、
実際にアクセス数もぶっちゃけ少なかったのですが、
少数でも読んでくれる人の存在が支えになりました

 

次回はいよいよ、このブログの最後の更新です。
漠然とですが、未来のことを書いてみます。

宣哲版 「最後のゼミ」

このブログの寿命も、いよいよ残り少なくなりました。
お別れの挨拶的なものを除けば、これが最後の記事です。

 

そこで、いわゆる「最後の授業」になぞらえた記事を。
といっても、『宣伝会議賞の哲学』の精神によれば、
「授業」ではなく「ゼミ」ということになるかな。
しかも、中身は一冊の本を紹介するだけですが・・・。

 

本ブログのテーマは「メタ宣伝会議賞なのですが、
それをさらに推し進めると、どこにたどりつくのか?
考えてみたい人は、この本を読んでみてはいかが?

 

『アリさんとキリギリス』(細谷功、さくら舎、2016年)

 

特に、第5章「川下と川上」は参考になりそう。

 

本の内容自体は、自分で読んでもらうことにして、
宣伝会議賞をこの本の考え方で読み解くと・・・。

 

本来は「キリギリス」のための賞だったはずが、
「アリ」が「アリ」を選ぶ賞になってしまった。

 

その成れの果ての象徴ともいえるのが、あの、
人類の歴史で最もつまらないようにも思える、
「傾向と対策セミナー」ではないでしょうか。

 

あ、本を読まないと何のことか分かりませんよね。
本を読んででも考えたい人だけ、分かってくれれば。
現在の宣伝会議賞のあり方に対して強い疑問を持ち
理解できないギャップに困り果てている人だけね。

SKAT 18 or PoShAT 2 ?

前回に続き、今回も応募作品を公開します

 

前回は応募作品を自己審査までしたのですが、
今回はもう気力がないので自己審査はなし

前回と同じく、私が応募した全作品はもちろん、
作品意図、さらには作者コメントもつけました。

 

では、下記のリンクにアクセスしてご覧ください。

 

PoShAT 2
Potentially Shocking ADream Text 2

 

https://drive.google.com/file/d/1IHsirhCLT68nAKv7vqkoX26tvZNBy6FG/view?usp=sharing

 

もう次回以降は宣伝会議賞には参加しませんし、
このブログもまもなく更新をやめる予定ですが、
宣伝会議賞で結果が出なかったことはさておき、
宣伝会議賞の可能性のヒントを残してみたい
主に、まだ見ぬ未来の「宣哲徒」向けですが、
既存の応募者も含めて、考える材料になれば。

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その5

前回まで4回に渡って、『泣いた赤おに』の解釈について、
「紫おに」説と、付随する「赤おに化」説を提示しました。
今日は、その後書き的なものを書いて終わりにします。

 

そもそも、なぜこんな記事を書いてみようと思ったのか。

実は、「紫おに」説は、5年以上前に浮かんでいました
似た解釈をした人はいないか、ずいぶん検索しましたが、
そんな解釈は発見できずがっかりした記憶があります。

その当時はブログをまだやっていなかったのですが、
今ならここで自ら発表する手があるじゃないか、と。
このブログは、近日中に更新を終える予定なので、
なんとかそれまでには書いておこうということで。

本来は今年の1月には書いておきたかったのですが、
書くために考えを整理する中で、再考が必要になり、
ようやくこのタイミングで書くことができました。
「赤おに化」説は、その再考の過程で生まれたもの

私がかつて、自分と似た解釈を検索したように、
他の誰かが似た解釈を検索することがあれば、
この記事を発見して喜んでもらえたら嬉しい

 

それにしても、少なくとも私が知る範囲では、
誰も「紫おに」説を提示していないのはなぜ?
「赤おに化」説はともかく、「紫おに」説は、
決して特殊な解釈ではないと思うのですが。

考えてみると、解釈そのものは特殊ではないが、
たどりつきやすさに影響する条件があるような。

 

・「青おにはなぜいなくなったのか」という問いを持てるか
 何らかの問いを持って読み直すことはほぼ必須か。
 しかも、同じ「なぜ」で表現される問いの中でも、
 「助けた動機」ではなく「いなくなる原理」
 そっちに思考が向かうかどうかがポイントでは。
 私の場合は、『12の物語』で問いを与えられ、
 鴻上さんは「動機」の問題として考えているけど、
 誤解した(?)私は「原理」の問題として考えた。

・絵本等の改作と原作のどちらと実質的に先に出会うか
 「無償の友情」説寄りの改作に先に出会うと、
 そこから「紫おに」説を導くことはかなり困難。
 今回は偕成社版の絵本を基にして考えましたが、
 他の絵本も似たり寄ったりではないでしょうか。
 絵本以外でも、道徳の授業向けの教材では絶望的。
 私は原作版より先に絵本版を読んだのですが、
 それ以前に『12の物語』を読んだことにより、
 原作のあらずじと先に出会ったことになります。
 子供の頃に改作に触れた可能性もありますが、
 強い記憶があったわけではないので影響はなし。

フロイト心理学への関心があるか
 フロイト心理学をかじったことがある方がいい。
 私としては、「紫おに」説の基本構造は、
 フロイト心理学からのアナロジーのつもり。
 本格的に学んだわけではなく、この本の影響。
 『ものぐさ精神分析』(正・続) (岸田秀、中公文庫)

最も重要なのは1番目の条件だとは思いますが、
それ自体が2番目と3番目の条件に影響されそう。

 

フロイト心理学に関心がある人が、原作と先に出会い、
「青おにはなぜいなくなったのか」と問いさえすれば、
「紫おに」説は、自然に出てくるのではないでしょうか。

ただ、これらの条件を満たす人が少ないのでしょう。
絵本等の改作の方が、圧倒的にポピュラーですから。

 

というわけで、「紫おに」説を支持する少数派の人
せっかくのご縁なので、ブログやSNSで言及したり
なにかコメントを残したりしてもらえたら幸いです。

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その4

前回に引き続き、『泣いた赤おに』の解釈の話。

 

前回書いたように、原作版と絵本版の違いからは、
原作版とは見事に整合性がある「紫おに」説を、
絵本版は一見ことごとく否定しているようです。

「紫おに」説は、捨てるにはあまりにも惜しく、
この点について、私はずいぶん悩んだのですが、
ある時ふと、こんな考えが浮かんできました。

 

いや、実は、ことごとく否定されていることこそが、
原作版が「紫おに」の話であることの状況証拠では?

 

だって、「紫おに」説のフィルターを通して解釈しても、
原作版が「紫おに」の話だったのではないとするならば、
不整合が部分的だったり無関係な変更もあったりが普通で、
偶然では「ことごとく否定」にはならないと思うのです。

では、絵本版はなぜ原作版の真意を否定したのか?
私はついに、とんでもない解釈をひねり出しました。

 

作者は、『泣いた赤おに』そのものを「赤おに化」した。

 

これを、「赤おに化」説と呼ぶことにしましょう。

つまり、原作版を「紫おに」に見立てることにすれば、
そこから「青おに」(真意)が「いなくなった」のが、
世の中により広く受け入れられる「赤おに」(絵本版)

作者は、自らこの「赤おに化」を選んだのではないか。

 

そこで気になるのが、前回紹介した絵本版の後書き。
作者自身が「無償の友情」説を肯定しているような。

ただこれも、「赤おに化」の作業の一部なのかも。
さらにうがった見方をすれば、こんな解釈も可能。

・絵本版における原作版からの変更点
 「赤おにが青おにをぽかぽかなぐる」ことに相当
 作品の社会化の都合で、作中の真意を示す要素を否定。

・絵本版の後書き
 「青おにが自らひたいを柱にぶつける演技をする」ことに相当
 作者自ら、自身の真意を偽る。

 

「紫おに」説はともかく、「赤おに化」説は、
自分でも、さすがにうがった見方にも思えます。

それに、「赤おに化」説が正しいとしても、
作者がそうした動機までは分かりません
単に子ども向けに話を単純化した結果なのか、
それとも世間の無理解への皮肉を込めたのか。
後者の場合は、作者の姿勢も多様に解釈できそう
原作のテーマを作品自体に誠実に適用したとか、
ひねくれているとか、お茶目(?)とか・・・。

 

ここまで来ると、原作版と絵本版だけでなく、
『泣いた赤おに』の外部に根拠を求めたい
浜田廣介の他の作品や、人柄とか生涯とか。
ただ、それはもう、私の守備範囲外です。

どうしても気になる人の最終手段としては、
浜田広介記念館」を訪れることでしょうか。

http://hirosuke-kinenkan.jp/?page_id=73

ただ、それで何か出てくるかは疑問ですね。
「紫おに」説にせよ「赤おに化」説にせよ、
それを肯定する根拠もそれを否定する根拠も、
この世のどこにも存在しないかもしれないし。

 

次回は、後書き的なものを書いて、最終回とします。

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その3

前回に引き続き、『泣いた赤おに』の解釈の話。

 

前回は、原作版を基に、「紫おに」説を提示しました。
が、絵本版を読むと、実はこの説には疑義があるのです。

 

本考察のきっかけになった『12の物語』では、
原作版のあらすじが詳細に紹介されています。
それを読み終えた段階ですでに、私の中には、
「紫おに」説への確信に近い自信がありました。

確認のため、『泣いた赤おに』を読んでみることに。
が、『12の物語』の章扉の書影が絵本版だったので、
原作版の存在を意識せずに絵本版を手に取りました

読み進めるうちに、自信は確信に変わっていきました。
もう、「紫おに」説以外はありえないというくらいに。

ところが、最後に大どんでん返しが待っていたのです。
絵本版の最後で、赤おには、こんな泣き方をしています。

 

 「ああ、あおくん、きみは そんなに 
  ぼくを おもって くれるのか。」
 いわの とに、りょうてを あてて、
 あかおには、かおを おしつけ、
 たらたらと なみだを ながして なきました。

 

「紫おに」説もろとも、私はひっくり返りました。
これはもう、「無償の友情」説そのものじゃないですか!
「紫おに」説の立場では、そんな泣き方では困るのです。

その後、ようやく原作版の存在に気付きました
原作版では、赤おには、違う泣き方をしています。

 

 戸に手をかけて、顔をおしつけ、しくしくと、
 なみだをながして泣きました。

 

余計なセリフはなく、ただ黙って泣いています
そう、「紫おに」説にとっては、こうじゃないと。
これで、「紫おに」説の面目も一応は保たれました。

 

では、絵本版との整合性はどうなるのか・・・?

絵本版には、浜田廣介自身が後書きを寄せており、
絵本版が作者の意に反するものではないのは明らか。

その後書きでは、あらすじ紹介に続けて、こうあります。

 

 青おにの深い友情、泣く赤おにの熱いなみだ、
 ふたりそれぞれのあわれなすがたをドラマチックに書いたもの。
 一九三三年、作者四十才の作であります。

 この作品を読んだといって、世間の知らない読者から、
 作者は、ときおり、おたよりをいただきました。
 その後、青おにが、どうなったのか、
 書いてほしいというお手紙もとどいてきました。
 およそ、感銘することは、おとなも子どもも
 同じものによるのであるとわかりました。
 それで、こんどの絵本にも、この作をやさしく書いて、
 読んでもらうことにしました。

 

ありゃ、作者自身が、「深い友情」って書いてますね。

そこで、あらためて原作版と絵本版を比較してみると、
あれ、赤おにの泣き方以外にもいくつかの違いが・・・。

 

・赤おにと青おにの角
 前回指摘した通り、原作版の記述から考えると、
 赤おにには「角のあと」青おにには「角」
 一方、絵本版では、文には角の描写はなく、
 「角でも、いためているのかな」もない。
 また、絵では両者とも同じ大きさの角がある。

・青おにのセリフと様子
 原作版のいかにも意味深な次の部分が、絵本版にはない。

  「なにか、ひとつの目ぼしい事をやりとげるには、
   どこかでか、いたい思いか、そんをしなくちゃならないさ。
   だれかが、ぎせいに、身がわりに、なるのでなくちゃ、できないさ。」
  なんとなく、ものかなしげな目つきを見せて、
  青おには、でも、あっさりと、いいました。

・あぶら絵
 あぶら絵の記述が、原作版にはあるが絵本版にはない。
 あぶら絵の記述全体がないため、単に短くするためかも。
 が、特に次の部分は、象徴的な意味合いを感じさせる。
 例えば、「おに」とは「子どものこころ」である、とか。

  人間のかわいい子どもを、赤おにが、
  くびのところにまたがらせ、
  しょうめんむきになっているのでありました。
  たぶん、その絵の赤おには、じぶんの顔を
  えがいたものかもしれません。

・青おにの手紙の内容
 絵本版の次の箇所は、原作版には該当箇所がない。
 ここは、「無償の友情」につながると考えられる。 

  きみの だいじな しあわせを
  いつも いのっているでしょう。

 原作版の次の箇所は、絵本版には該当箇所がない。
 ここは、「消えない想い」につながると考えられる。

  ドコカデカ、マタモ アウ 日ガ
  アロウ コトカモ シレマセン。

 

物語の解釈に関係する主要な違いは網羅したつもり。
これらの違いを差し引いて絵本版を解釈すると、
何が「紫おに」説を支持する材料になりうるか?
赤おにと青おにが住んでいる場所の違いについては、
物語の描写の都合上残ったと考えた方がよさそう。
最後に残ったのは、物語の基本構造だけですね。
「青おにが赤おにを助けていなくなる」という。
これを変えたら、『泣いた赤おに』じゃないけど。

つまり、変えようのない物語の基本構造と、
描写の都合上変えにくい状況設定を除けば、
「紫おに」説を支持する材料は消えています
しかも、上記の違いはすべて「紫おに」説に関係

 

絵本版は、「紫おに」説とは整合性がないどころか、
「紫おに」説をことごとく否定している感すらある
でも、原作版とは見事に整合性がある「紫おに」説を、
このまま捨ててしまうのはあまりにももったいない。

 

次回は、やや強引に、「紫おに」説の生き残りを図ります。