宣伝会議賞の哲学

宣伝会議賞を通して、コピーライティングのあるべき姿を考えていきます。

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その4

前回に引き続き、『泣いた赤おに』の解釈の話。

 

前回書いたように、原作版と絵本版の違いからは、
原作版とは見事に整合性がある「紫おに」説を、
絵本版は一見ことごとく否定しているようです。

「紫おに」説は、捨てるにはあまりにも惜しく、
この点について、私はずいぶん悩んだのですが、
ある時ふと、こんな考えが浮かんできました。

 

いや、実は、ことごとく否定されていることこそが、
原作版が「紫おに」の話であることの状況証拠では?

 

だって、「紫おに」説のフィルターを通して解釈しても、
原作版が「紫おに」の話だったのではないとするならば、
不整合が部分的だったり無関係な変更もあったりが普通で、
偶然では「ことごとく否定」にはならないと思うのです。

では、絵本版はなぜ原作版の真意を否定したのか?
私はついに、とんでもない解釈をひねり出しました。

 

作者は、『泣いた赤おに』そのものを「赤おに化」した。

 

これを、「赤おに化」説と呼ぶことにしましょう。

つまり、原作版を「紫おに」に見立てることにすれば、
そこから「青おに」(真意)が「いなくなった」のが、
世の中により広く受け入れられる「赤おに」(絵本版)

作者は、自らこの「赤おに化」を選んだのではないか。

 

そこで気になるのが、前回紹介した絵本版の後書き。
作者自身が「無償の友情」説を肯定しているような。

ただこれも、「赤おに化」の作業の一部なのかも。
さらにうがった見方をすれば、こんな解釈も可能。

・絵本版における原作版からの変更点
 「赤おにが青おにをぽかぽかなぐる」ことに相当
 作品の社会化の都合で、作中の真意を示す要素を否定。

・絵本版の後書き
 「青おにが自らひたいを柱にぶつける演技をする」ことに相当
 作者自ら、自身の真意を偽る。

 

「紫おに」説はともかく、「赤おに化」説は、
自分でも、さすがにうがった見方にも思えます。

それに、「赤おに化」説が正しいとしても、
作者がそうした動機までは分かりません
単に子ども向けに話を単純化した結果なのか、
それとも世間の無理解への皮肉を込めたのか。
後者の場合は、作者の姿勢も多様に解釈できそう
原作のテーマを作品自体に誠実に適用したとか、
ひねくれているとか、お茶目(?)とか・・・。

 

ここまで来ると、原作版と絵本版だけでなく、
『泣いた赤おに』の外部に根拠を求めたい
浜田廣介の他の作品や、人柄とか生涯とか。
ただ、それはもう、私の守備範囲外です。

どうしても気になる人の最終手段としては、
浜田広介記念館」を訪れることでしょうか。

http://hirosuke-kinenkan.jp/?page_id=73

ただ、それで何か出てくるかは疑問ですね。
「紫おに」説にせよ「赤おに化」説にせよ、
それを肯定する根拠もそれを否定する根拠も、
この世のどこにも存在しないかもしれないし。

 

次回は、後書き的なものを書いて、最終回とします。