宣伝会議賞の哲学

宣伝会議賞を通して、コピーライティングのあるべき姿を考えていきます。

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その2

前回に引き続き、『泣いた赤おに』の解釈の話。

「青おにはなぜいなくなったのか」の核心は、
私はこうなんじゃないかと考えています・・・。

 

赤おにと青おには、元々は一匹のおにだった。

 

これを、「紫おに」説と呼ぶことにしましょう。

 

「一匹のおに」は、もちろん「一人の人間」の比喩
赤おには「わかい」、青おにはその「なかま」なので、
年齢は「子ども」と「大人」の中間ぐらいでしょうか。

そして、「赤おに」と「青おに」を、こう捉えてみます。

赤おに:社会化されることを望む心理
青おに:社会化されることを拒む心理

「青」に生まれて「赤」に「成長中」だったのか、
「紫」一色が「赤」と「青」に「分裂した」のか、
その区別は、ここでは問題にしないことにします。

いずれにせよ、「赤おに」と「青おに」とは、
一人の人間のアイデンティティーについて
相反する自己意識が同居することの比喩である、
そう考えると、いろいろと辻褄が合うのです。

 

では、「紫おに」説の根拠を示していきます。

なお、今回は原作版を基に検討していきます。
実は、絵本版には重要な違いがあるのですが、
その点については、次回に検討する予定です。

 

まず、赤おにと青おにの描かれ方の違いから。

・角の違い

 赤おにの角については、こう描かれています。

  あたまには、どうやら、角のあとらしい、
  とがったものが、ついていました。

 青おにの角については、赤おにがこう言っています。

  角でも、いためているのかな。

 ここでの赤おにの言い方が正確だとすれば、
 赤おにの「角のあとらしい」ものとは違い、
 青おににはまだ角があることになりますね。
 角についての記述はこれ以外にないので、
 断定できるかはともかく、蓋然性は高い。
 
 角は、社会化されていないことの象徴でしょう。
 『ガラスの動物園』(テネシー・ウィリアムズ)の、
 「ユニコーンの角」にも通ずるかもしれません。

・住んでいる場所の違い

 赤おにの家については、こう描かれています。

  山のがけの所 / がけ下

 青おにの家については、こう描かれています。

  とおいとおい山おくの岩の家

 青おにの家が人里から遠く離れているのに対して、
 赤おにの家は人里により近い所にあるようです。
 これも、社会化の度合いの差と考えてよさそう。

 

次に、赤おにと青おにが同居した「紫おに」について。

「赤おに」と「青おに」が上述の通りだとして、
青おにはなぜ赤おにに協力してしまったのか?
相反する立場にあるなら、協力しないのでは?
いや、両者はそもそも独立ではないのです。
だって、「元々は一匹のおに」なのですから。

題名の通り、赤おにが主人公になっているのは、
「赤おに」が優勢になった時の心理の話だから。
「青おにが自ら協力を申し出た」というのは、
「赤おに優勢の紫おに」がそう解釈しただけ
赤おにが青おにを懲らしめる演技の延長として、
青おにがひたいを柱にぶつけるふりのつもりが、
強く打ちすぎて思わず声が出てしまったのは、
社会化のために心の底から自分を裏切る痛みが、
社会化を望む自分の想像以上であることの示唆。

 

最後に、まとめとして、「紫おに」説によれば、
結局、『泣いた赤おに』はどういう話なのか?

赤おにが青おにのすみかを訪ねた場面では、
周辺の情景がこのように描かれています。

 夏もくれていくというのに、
 このおく山の庭のやぶには、まだ、
 やまゆりが、まっ白な花をさかせて
 ぷんぷんと、におっていました。
 松の木のふとい枝から、
 ぱらぱらと、つゆがこぼれて、
 ささの葉をぬらしていました。
 まだ、日はさしていませんでした。

そこは、みずみずしい生命が宿る場所なのでしょう。
それを、赤おにが見つめていることに意味があるはず。
かつては、赤おにもそこに住んでいたんじゃないか。

しかし、青おにはいなくなってしまいました。
いや、本当は、そこにいるのかもしれませんが、
とにかく、赤おには簡単には会えなくなりました
ただ、青おにがこの世界から消えたわけではなく。

 ナガイ ナガイ タビニ ナルカモ シレマセン。
 ケレドモ、ボクハ イツデモ キミヲ ワスレマスマイ。
 ドコカデカ、マタモ アウ 日ガ アロウ コトカモ シレマセン。

 

赤おにが人間の社会にやっと受け入れられた時、
一匹のおにの中に青おにの居場所はもうなかった
その時、青おに(の不在)への想いが溢れ出した

『泣いた赤おに』は、道徳的な何かではなく、
一人の人間が社会化されることで何かを見失う
その哀しみや、忘れかけたものへの愛おしさ
そういうことを描いた作品だと思っています。

 

次回は、「紫おに」説が避けては通れない、
原作版と絵本版の違いについて検討します。