宣伝会議賞の哲学

宣伝会議賞を通して、コピーライティングのあるべき姿を考えていきます。

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その3

前回に引き続き、『泣いた赤おに』の解釈の話。

 

前回は、原作版を基に、「紫おに」説を提示しました。
が、絵本版を読むと、実はこの説には疑義があるのです。

 

本考察のきっかけになった『12の物語』では、
原作版のあらすじが詳細に紹介されています。
それを読み終えた段階ですでに、私の中には、
「紫おに」説への確信に近い自信がありました。

確認のため、『泣いた赤おに』を読んでみることに。
が、『12の物語』の章扉の書影が絵本版だったので、
原作版の存在を意識せずに絵本版を手に取りました

読み進めるうちに、自信は確信に変わっていきました。
もう、「紫おに」説以外はありえないというくらいに。

ところが、最後に大どんでん返しが待っていたのです。
絵本版の最後で、赤おには、こんな泣き方をしています。

 

 「ああ、あおくん、きみは そんなに 
  ぼくを おもって くれるのか。」
 いわの とに、りょうてを あてて、
 あかおには、かおを おしつけ、
 たらたらと なみだを ながして なきました。

 

「紫おに」説もろとも、私はひっくり返りました。
これはもう、「無償の友情」説そのものじゃないですか!
「紫おに」説の立場では、そんな泣き方では困るのです。

その後、ようやく原作版の存在に気付きました
原作版では、赤おには、違う泣き方をしています。

 

 戸に手をかけて、顔をおしつけ、しくしくと、
 なみだをながして泣きました。

 

余計なセリフはなく、ただ黙って泣いています
そう、「紫おに」説にとっては、こうじゃないと。
これで、「紫おに」説の面目も一応は保たれました。

 

では、絵本版との整合性はどうなるのか・・・?

絵本版には、浜田廣介自身が後書きを寄せており、
絵本版が作者の意に反するものではないのは明らか。

その後書きでは、あらすじ紹介に続けて、こうあります。

 

 青おにの深い友情、泣く赤おにの熱いなみだ、
 ふたりそれぞれのあわれなすがたをドラマチックに書いたもの。
 一九三三年、作者四十才の作であります。

 この作品を読んだといって、世間の知らない読者から、
 作者は、ときおり、おたよりをいただきました。
 その後、青おにが、どうなったのか、
 書いてほしいというお手紙もとどいてきました。
 およそ、感銘することは、おとなも子どもも
 同じものによるのであるとわかりました。
 それで、こんどの絵本にも、この作をやさしく書いて、
 読んでもらうことにしました。

 

ありゃ、作者自身が、「深い友情」って書いてますね。

そこで、あらためて原作版と絵本版を比較してみると、
あれ、赤おにの泣き方以外にもいくつかの違いが・・・。

 

・赤おにと青おにの角
 前回指摘した通り、原作版の記述から考えると、
 赤おにには「角のあと」青おにには「角」
 一方、絵本版では、文には角の描写はなく、
 「角でも、いためているのかな」もない。
 また、絵では両者とも同じ大きさの角がある。

・青おにのセリフと様子
 原作版のいかにも意味深な次の部分が、絵本版にはない。

  「なにか、ひとつの目ぼしい事をやりとげるには、
   どこかでか、いたい思いか、そんをしなくちゃならないさ。
   だれかが、ぎせいに、身がわりに、なるのでなくちゃ、できないさ。」
  なんとなく、ものかなしげな目つきを見せて、
  青おには、でも、あっさりと、いいました。

・あぶら絵
 あぶら絵の記述が、原作版にはあるが絵本版にはない。
 あぶら絵の記述全体がないため、単に短くするためかも。
 が、特に次の部分は、象徴的な意味合いを感じさせる。
 例えば、「おに」とは「子どものこころ」である、とか。

  人間のかわいい子どもを、赤おにが、
  くびのところにまたがらせ、
  しょうめんむきになっているのでありました。
  たぶん、その絵の赤おには、じぶんの顔を
  えがいたものかもしれません。

・青おにの手紙の内容
 絵本版の次の箇所は、原作版には該当箇所がない。
 ここは、「無償の友情」につながると考えられる。 

  きみの だいじな しあわせを
  いつも いのっているでしょう。

 原作版の次の箇所は、絵本版には該当箇所がない。
 ここは、「消えない想い」につながると考えられる。

  ドコカデカ、マタモ アウ 日ガ
  アロウ コトカモ シレマセン。

 

物語の解釈に関係する主要な違いは網羅したつもり。
これらの違いを差し引いて絵本版を解釈すると、
何が「紫おに」説を支持する材料になりうるか?
赤おにと青おにが住んでいる場所の違いについては、
物語の描写の都合上残ったと考えた方がよさそう。
最後に残ったのは、物語の基本構造だけですね。
「青おにが赤おにを助けていなくなる」という。
これを変えたら、『泣いた赤おに』じゃないけど。

つまり、変えようのない物語の基本構造と、
描写の都合上変えにくい状況設定を除けば、
「紫おに」説を支持する材料は消えています
しかも、上記の違いはすべて「紫おに」説に関係

 

絵本版は、「紫おに」説とは整合性がないどころか、
「紫おに」説をことごとく否定している感すらある
でも、原作版とは見事に整合性がある「紫おに」説を、
このまま捨ててしまうのはあまりにももったいない。

 

次回は、やや強引に、「紫おに」説の生き残りを図ります。