宣伝会議賞の哲学

宣伝会議賞を通して、コピーライティングのあるべき姿を考えていきます。

2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧

宣哲版 「最後のゼミ」

このブログの寿命も、いよいよ残り少なくなりました。お別れの挨拶的なものを除けば、これが最後の記事です。 そこで、いわゆる「最後の授業」になぞらえた記事を。といっても、『宣伝会議賞の哲学』の精神によれば、「授業」ではなく「ゼミ」ということにな…

SKAT 18 or PoShAT 2 ?

前回に続き、今回も応募作品を公開します。 前回は応募作品を自己審査までしたのですが、今回はもう気力がないので自己審査はなし。 前回と同じく、私が応募した全作品はもちろん、作品意図、さらには作者コメントもつけました。 では、下記のリンクにアクセ…

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その5

前回まで4回に渡って、『泣いた赤おに』の解釈について、「紫おに」説と、付随する「赤おに化」説を提示しました。今日は、その後書き的なものを書いて終わりにします。 そもそも、なぜこんな記事を書いてみようと思ったのか。 実は、「紫おに」説は、5年…

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その4

前回に引き続き、『泣いた赤おに』の解釈の話。 前回書いたように、原作版と絵本版の違いからは、原作版とは見事に整合性がある「紫おに」説を、絵本版は一見ことごとく否定しているようです。 「紫おに」説は、捨てるにはあまりにも惜しく、この点について…

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その3

前回に引き続き、『泣いた赤おに』の解釈の話。 前回は、原作版を基に、「紫おに」説を提示しました。が、絵本版を読むと、実はこの説には疑義があるのです。 本考察のきっかけになった『12の物語』では、原作版のあらすじが詳細に紹介されています。それ…

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その2

前回に引き続き、『泣いた赤おに』の解釈の話。 「青おにはなぜいなくなったのか」の核心は、私はこうなんじゃないかと考えています・・・。 赤おにと青おには、元々は一匹のおにだった。 これを、「紫おに」説と呼ぶことにしましょう。 「一匹のおに」は、…

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その1

今日からは数回に分けて、宣伝会議賞とは関係ない話。 題材は、『泣いた赤おに』(浜田廣介、1933年)。道徳の授業の教材としてよく使用されているようで、あらすじは知っている人も多いかもしれませんが、後述の「絵本版」のカバーから引用しておきます…