宣伝会議賞の哲学

宣伝会議賞を通して、コピーライティングのあるべき姿を考えていきます。

青おにはなぜいなくなったのか?       『泣いた赤おに』をめぐる一考察 その5

前回まで4回に渡って、『泣いた赤おに』の解釈について、
「紫おに」説と、付随する「赤おに化」説を提示しました。
今日は、その後書き的なものを書いて終わりにします。

 

そもそも、なぜこんな記事を書いてみようと思ったのか。

実は、「紫おに」説は、5年以上前に浮かんでいました
似た解釈をした人はいないか、ずいぶん検索しましたが、
そんな解釈は発見できずがっかりした記憶があります。

その当時はブログをまだやっていなかったのですが、
今ならここで自ら発表する手があるじゃないか、と。
このブログは、近日中に更新を終える予定なので、
なんとかそれまでには書いておこうということで。

本来は今年の1月には書いておきたかったのですが、
書くために考えを整理する中で、再考が必要になり、
ようやくこのタイミングで書くことができました。
「赤おに化」説は、その再考の過程で生まれたもの

私がかつて、自分と似た解釈を検索したように、
他の誰かが似た解釈を検索することがあれば、
この記事を発見して喜んでもらえたら嬉しい

 

それにしても、少なくとも私が知る範囲では、
誰も「紫おに」説を提示していないのはなぜ?
「赤おに化」説はともかく、「紫おに」説は、
決して特殊な解釈ではないと思うのですが。

考えてみると、解釈そのものは特殊ではないが、
たどりつきやすさに影響する条件があるような。

 

・「青おにはなぜいなくなったのか」という問いを持てるか
 何らかの問いを持って読み直すことはほぼ必須か。
 しかも、同じ「なぜ」で表現される問いの中でも、
 「助けた動機」ではなく「いなくなる原理」
 そっちに思考が向かうかどうかがポイントでは。
 私の場合は、『12の物語』で問いを与えられ、
 鴻上さんは「動機」の問題として考えているけど、
 誤解した(?)私は「原理」の問題として考えた。

・絵本等の改作と原作のどちらと実質的に先に出会うか
 「無償の友情」説寄りの改作に先に出会うと、
 そこから「紫おに」説を導くことはかなり困難。
 今回は偕成社版の絵本を基にして考えましたが、
 他の絵本も似たり寄ったりではないでしょうか。
 絵本以外でも、道徳の授業向けの教材では絶望的。
 私は原作版より先に絵本版を読んだのですが、
 それ以前に『12の物語』を読んだことにより、
 原作のあらずじと先に出会ったことになります。
 子供の頃に改作に触れた可能性もありますが、
 強い記憶があったわけではないので影響はなし。

フロイト心理学への関心があるか
 フロイト心理学をかじったことがある方がいい。
 私としては、「紫おに」説の基本構造は、
 フロイト心理学からのアナロジーのつもり。
 本格的に学んだわけではなく、この本の影響。
 『ものぐさ精神分析』(正・続) (岸田秀、中公文庫)

最も重要なのは1番目の条件だとは思いますが、
それ自体が2番目と3番目の条件に影響されそう。

 

フロイト心理学に関心がある人が、原作と先に出会い、
「青おにはなぜいなくなったのか」と問いさえすれば、
「紫おに」説は、自然に出てくるのではないでしょうか。

ただ、これらの条件を満たす人が少ないのでしょう。
絵本等の改作の方が、圧倒的にポピュラーですから。

 

というわけで、「紫おに」説を支持する少数派の人
せっかくのご縁なので、ブログやSNSで言及したり
なにかコメントを残したりしてもらえたら幸いです。