宣伝会議賞の哲学

宣伝会議賞を通して、コピーライティングのあるべき姿を考えていきます。

第55回宣伝会議賞 ファイナリストの論点 その3 後篇

『ファイナリストの論点』、ようやく、最終回です。
といっても、もう作品からは離れて、後書きみたいな。

 

「人称論」は、元々、ちょっと頭にありました。
どちらかと言えば、主に気になっていたのは、
一人称と二人称の区別だったんですがね・・・。

広告主が受け手の目を見て言うべき内容が、
なぜか一人称で遠い目で語られている、とか。


ちなみに、そういうの、実際の広告にもあって。

東京の都営じゃない方の地下鉄に乗ると、
よく見かける気がするのはなぜだろう・・・。

 

今回は、一人称と三人称の相対的な区別を、
「擬似一人称度」の高低で考えてみました。
この観点で、内容と文体が合っているか、と。

 

明らかにセリフ文体のコピーはもちろん、
そうでないコピーのほとんども広い意味では、
「誰かが言っている」と捉えられるとすれば、
「誰が言っているのか」を考える意味はありそう。
そこで、「人称」という視点が役に立つ、かも。

 

また、1本ずつのコピーの文体についてだけでなく、
コピーの文体の傾向についても論点を提示しうるかも。

例えば、一人称が氾濫しているように思えるのは、
身近な課題が圧倒的に例題になりやすい結果として、
文体選択の幅が狭くなってしまったのでは、とか。

 

「人称」の観点からコピーが論じられた例
どこかにあったら、教えていただければ。

オカキンさんの「売り言葉/買い言葉」は、
「二人称/一人称」とも考えられるかも。
まあ、文体論ではないですけどね・・・。

 

ここに書いた考えにしてもそれ以外にしても、
絶対的な「正解」があると考えてしまうと、
誰もがその文体で書くことになってしまい、
それがいいことだとは私には思えません

それでも、何がオーソドックスなのか
それは考えてみる価値はあると思います。
そこから外れることで何が生まれるか
という視点で文体を考えていくとか。

 

次回は、私選主要賞を今週末辺りに(予定)。
「一日一作品ずつ」の予定だったのですが、
それでは3月末までに終わりそうにないので、
シルバーはまとめて発表することにします。